骨法と出会った話

男の子ってものは誰でも強くなりたいものであると思う。幼少期であれば特撮ヒーローのような架空人物の超人的強さに憧れるもので、思春期くらいになってくると実在する人物の強さに憧れるものだと思う。まあ、思春期の時代にこの「憧れ」で起こした行動が後の人生で思い起こして悶絶するくらいに恥ずかしい記憶となることも多々ある。

おれが高校生の頃のこと。中学時代の親友が別高校に入学したのだけど、これが地元でも不良の多い高校だった。彼が入学したのは底辺校ではなく農業高校で、不良と言っても体力のある不良のいる高校だった。学内ヒエラルキーは喧嘩の強い不良よりもスポーツエリート、特に柔道部の重量級選手のほうが格上というアメリカスクールカーストのような階層だった。この親友はと言えば、ジョックではなくどちらかと言うと悪いお友達との付き合いを持つようになっていって、それに少なからずおれも感化されるようになる。要は喧嘩の強さに憧れるようになったのだった。

でもおれは一方でオタク気質の人間である(笑)。おれも中学時代に柔道をやっていたものの当時は組技系格闘技の実戦性が否定されていた(もちろん柔道の実戦性は大いに認めるべきであるし、当時無知であっただけである)ので空手をやりたかったのだが、地元には空手道場がなかった。何かしら打撃系格闘技を学びたいと思い、それで書店で手にした本が堀辺正史著「必殺 骨法の極意」であった。

 

必殺 骨法(こっぽう)の極意―喧嘩に勝てる秘伝のテクニック (サラ・ブックス)
 


本著が衝撃的だったのが、武道家である堀辺正史氏が「私が好きなものは喧嘩である」と本来武道で禁止されている喧嘩という暴力行為の肯定から始まるところにあった。「現代においては武道を人殺しには使えない、現代における実戦とは喧嘩である」と言う。そして「喧嘩に格闘技は使えるのか。柔道家は殴られて対応できるか、ボクサーは掴まれて対応できるか。また、喧嘩で使える技は目潰しや金的などの格闘技で反則行為とされている技」という既存の格闘技の否定により、骨法の理念が際立って感じられた。

その後は本著以外にも堀辺正史氏による骨法技術書を買い漁った。田舎の書店ではあったが、当時はUWF系の格闘技ライクなプロレスが流行っていたし、この手の書籍も入手がしやすかった。先述した「恥ずかしい記憶」として思い出されるのが、この頃一人で骨法の練習をしていたことにある(笑)。掌打にしても、例えば意識空間という考えがあって実際に攻撃を当てる対象物より向こうにあるものを打ち抜く意識が必要であるとか、「舞」とか「踊」とかの独自のフットワークの練習の為に母子球の捻転によるカニ歩きのような動作も練習していた。

当時は堀辺正史氏の格闘技理論は理路整然としたものに感じられた。今ではネットで笑いものにされている「ペチペチ」スタイルにしても、拳は脆いもので掌で叩くほうが良いという理由があった。掌を開いた状態であれば相手の腕を掴んでの攻撃をしやすいという利点もある。また、喧嘩という面で考えれば拳を握って殴るではなく掌であれば後に警官に「あくまでも自己防衛で、その証拠に拳を握ってないでしょ」と言い訳できるというセコい理由も納得できた。しかしながら、このスタイルが詠春拳を酷い劣化コピーしたものと知ったのは後のことである。

こうしてトリコ仕掛けになって骨法の素晴らしさを語るようになった俺に対し、中学からの親友はと言えば「そんなんで力って入るの?思いっきりぶん殴ったほうが強いんじゃね?」と、懐疑的な態度であった。おれは堀辺正史氏の理屈を鵜呑みにして反論をしていたのだが、今思えば親友の言っていたことのほうが正しいだろう(笑)。ちなみに彼は高校に入ってから、言われなきゃわからないレベルだが鼻が右方向に軽く歪み、拳には傷が絶えないようになる。まあ、そんな時代なのだ(笑)。

骨法に憧れを抱いてすぐのこと、アメリカでとんでもない格闘技大会が開かれた。あの有名なUFCである。当時は「アルティメット」と呼ばれていて、ルールは噛み付きと目つぶしのみが反則と喧嘩に近いものだった。そしてここで圧倒的な強さを見せたのが今では有名なグレイシー柔術だった。

この衝撃は堀辺正史氏にとっても相当なものであったろう。この後すぐに「ペチペチ」スタイルをやめてしまい、レオタードのような衣装を道着に変えたのだ。「あれ?寝技は敵が複数いるときは使えないって言ってたのに???」と些かの疑問を抱いた。また、骨法は日本で大陸文化のない唯一の古武術と言っていたはずなのに、こんな簡単に技術を変化させられるものかという思いもあった。でもあれだけ論理的な人がスタイルを変えたんだから、きっと正しいだろうと無茶な脳内補正をしていた。洗脳というのものは遠く離れていてもされるものなのである。

それでもまだ憧れは強かったし、高校を卒業し上京したらすぐに骨法に入門しようと思っていた。だけど「練習についていけるかの入門テストがある」ということなので断念していた。あれだけ屈強な人たちが要求する体力なぞ絶対にムリだと思ったのだ。そりゃあビビるのは当然である。それでこの当時、都内で寝技中心の柔道を教えるところがあると知り、そこに通うことにしたのだった。当時愛読していた格闘技通信(今思えば酷い骨法広告塔笑)に高専柔道を教える場所があると書いてあったのだ。上京した年の初夏の話だ。

この当時は総合格闘技は「なんでもあり」という意味合いが強く、勝つための技術には寝技が第一と考えられていた。それほどにグレイシー柔術が圧倒的だったのだ。そんな時代だったので、この道場には柔道家以外にも空手やキックボクシングなど様々な格闘技経験者が来ていた。そのうちに骨法のビデオで見かけた人がいたのだった。これには嬉しくなり、軽々しくもだけど話しかけてしまったのだ。

「あの、骨法の人ですよね?」と尋ねるとちょっと嫌そうな顔をして「誰から聞きました?私もう骨法じゃないんですよ」と答えてくれた。「やっぱり骨法って練習が厳しいとかあるのでしょうか?」と聞くと「厳しいって言うかねえ、私もうは骨法やめた人間なんであんまり思ってることを言うと悪口になっちゃうので。でも骨法は入門しないほうが良いと思いますよ。体力テスト?あんなの入門代払えば誰でも入れますから」と言うのだった。

実はこの場には元骨法門下生は最初に話をした彼だけではなく他にも数人いた。最初話をした元門下生は遠慮がちな言い方ではあったが、他の元門下生と言えば嬉々としたボロクソな言いっぷりだった。この日の練習後は図々しくも元門下生の人たちと一緒に帰らせてもらい、その間はずうっと骨法がいかに酷い場所であるかという話題を話してくれていた。例えば骨法の掌打技術をやってみせては「でもこんなん決まるわけないですよ。ほら、こうやったら外れちゃうでしょ」と否定をしてみせてくれた。技術体系の否定だけじゃなく、道場の不透明な運営状況だったり、堀辺正史氏の家庭にまつわる話であったり、局長と呼ばれた堀辺正史氏夫人にまつわる話も聞かせてくれた。本やビデオの向こうにいた人たちと話を出来たことがうれしかった反面、図々しくも内情を聞いても良いものかと思った。いやでもそれどころか、内情を教えてもらおうと聞く必要が皆無なくらい彼らのかつての所属した場所への思いのぶちまけは止まらなかった。

なお、ぶちまけられた話の内容については割愛する。ネットで流れている骨法についての情報は元門下生によって書かれていることが多いので、体験譚としては「真実」であるだろうとだけ言っておく。

 この年は骨法が他流試合を宣言した年であった。海外選手を招聘して行われる大会に骨法からも二人の参戦が決定していていた。骨法側が170cm前後の身長に無理やり増量して90kgくらいの体躯だったのに対し、対戦相手はブラジル人のヘビー級選手と無茶な試合が組まれていた。元門下生に「あのお二方は勝てるのでしょうか」と聞いたら「絶対にムリでしょ。正直、素人に毛の生えたような道場ですからね」と即答だった。貧乏学生ではあったもののチケット代を捻出して購入していたのが気が削がれた思いであった。この後日観に行った試合結果は骨法の惨敗であった。一人は開始1分足らずでギブアップ負け、二人目は判定まで持ち込んだものの医師やレフリーが止めるべき一方的かつ凄惨な内容だった。この試合の後、長年広告塔だった格闘技通信誌からは「骨法は紙面を割いてまで紹介する団体じゃなかった」と決別宣言を出されてしまう。

 元門下生との付き合いは1年ほどだったと思う。この門下生グループについてわかる人ならわかるだろうが、代表は「東洋の神秘」のキャッチコピーで、グラップリング競技で日本代表になったこともある選手だ。でもなぜだかこの時期にこの代表の人に合う機会が無く、後年おれが別の総合格闘技ジムに通ってたときに特別講師として来たときに少し話をしただけだ。本記事とは別人脈でこの代表に出会った人の話によると、根本敬とよく似た人間像とのことだった。「うなぎ」もキャッチコピーにしている通り、とらえどころがないものの、絡みつくような雰囲気らしい。

なお、後年おれが通ってた総合格闘技ジムというのが、いっときは骨法と「一緒に強い日本人選手を育てよう」と同盟を結んでいたジムであった。骨法つながりで入門したつもりはなかったのだが、入門時はなぜかすっかり失念していたのだ。この「同盟」について古いジム会員によれば本心はそうでなかったという話だった。本心というのは、骨法を潰すことであった。かつて本部道場には「骨法をこの業界から追放しろ」の張り紙に溢れていったという。また、親善試合を前提とした対抗戦があったときも元相撲取りを当て込んだり、骨法門下生を壊しに行くつもりだったという。実はこのときの対抗戦が骨法にとってもっとも評判を落としたものであったと思う。ブラジル人選手との試合であれば当時は雲の上にいるような存在で勝てなくとも仕方ないという思いはあったが、日本人同士の対抗戦で圧倒されたのは失望を生んだと思う。

しかしそれでも骨法の道場は存続している。敗北しても、何度もスタイルを変えても、2015年暮れに堀辺正史氏が亡くなっても、今現在も存在している。新しい入門者だっているだろう。

堀辺正史氏はたぶん、本記事の冒頭に書いた「男の子ってものは誰でも強くなりたいもの」を追求し続けた人生だったろう。スラングを使った言い方をするならば、一生中二病であり続けた人生とも言える。そう言えば骨法に影響を受けた有名人も数多いる中で、永井豪が一時期傾倒して作中に骨法使いが登場することもあったし、ダイナミックプロ所属の風忍が骨法とゴジラが戦う作品までも描いている。そして、その他ゲームや漫画など架空の人物にも多くの影響を与えていた。これだけサブカルチャー方面に接点のある骨法なので、堀辺正史氏が存命中にも骨法が笑いものにされていることに気が付かないはずがないが、それでも骨法を継続したことは、分別の否定と死に狂いという葉隠を思わせる人生を貫いたとも言えよう。

そう言えばあのときに内情をよく話をしてくれていた元門下生の人たちは、サブカルオタク気質の中でも感受性の強い側の雰囲気があった。先述の通り、代表に至っては根本敬に酷似した人間像とも聞いている。堀辺正史氏に集まってくる人はそんな基質の人が多かったのかもしれないし、本質的にはどこか似通った人間性をもって集まったのかもしれない。そして、おれが上京したばかりの頃に物怖じせずに骨法に入門していたらどうだったろうと、タラレバを考えるのである。

ここまで書いて気がついたけど、骨法に「出会って」はいなくてニアミスな話だな(笑)