Y教諭の話

受験シーズンに差し掛かったので思い出す話。
 
おれの出身高校は商業高校だった。なぜ商業高校に入学したのかというと、地元学区で選択できる高校というのが、進学校と底辺校とその中間層にある職業高校と言う、大まかに分けるとこの三択の選択肢しかなかったからだ。常々、こんなクソ田舎に生まれてしまったもんだと故郷を恨んでいたものだった。中学時点に行われた高校側の説明会にあった「うちは商業高校だけど『努力次第』であれば大学進学の道もある」という言葉に殆ど騙されていたと言っても良い。

高校に入学して早いうちに感じたのが圧倒的な後悔だった。中学の時点でも、高校を卒業したら大学に進学するものという漠然とした将来像はあったものの、商業高校は就職を前提としたカリキュラムで、底辺校とバカにしていた高校のほうが大学進学に近いカリキュラムだと気がついたときは既に遅かった。「努力次第」と言う言葉は成績上位者であれば指定校推薦枠で特定の大学には進学できると言う、詐欺に近いようなやり口であった。また、進学できる大学にしても赤本の出てないような地方の商業科目の単科私立大学のみ、要はお世辞にも有名大学と言い難い大学ばかりだった。底辺校から入学する大学と同程度であり、それどころか底辺校からも数年に一人は国立大学に進学者を輩出していたので、自分のいる高校の将来性のなさに失望していた。
 
一つ出身校の名誉のために言っておくと(笑)、母校の商業高校は入学時の偏差値的には底辺校ではなかった。簿記など専門科目の資格取得数は県内でも有数であったし、進学校を狙える学力の生徒もそれなりに入学はしていた。県内でも専門科目については特に力を入れた学校であり、高度成長期の終わり頃に地元の社会人育成のために設立された学校だったのだ。身も蓋もないことを言ってしまうと、おれのような地元志向が皆無で高校を卒業したら東京の学校に進学することしか考えてない人にとって、創立理念的に全く異なる高校に入学してしまったことが間違いだったのである。
それをさておいても問題だったのは、専門科目の教員に無知なところが多々あったことだ。もちろん普通科の教員もいるのだが、商業高校である所以か専門科目の教員のほうが幅を利かせていた。そしてこれから述べるY教諭は、これまで目にした教員の中でも最も無知な教員であった。
 
Y教諭は当時、20代後半から30代前半くらいの年齢、見た目は神経質そうなトンボやカマキリのような細身の肉食昆虫を思わせる風貌だった。隣のクラスの担任で商業科目が担当科目、授業等で直接関わることはなくクラスの担任の不在時に朝の出席を取りに来る程度の関わりだった。余談ではあるが、クラスの担任が不在になる理由は当時離婚調停が泥沼化していたためである(笑)。Y教諭は必ず「お前ら生徒の将来は学校が握っている。自分だけで考えて将来を決めようと思わないこと」と言っていた。こいつ他クラスにまでわざわざそんなこと言いに来ているのかと、不思議になるほどの強い口調であった。そしてこの言葉の後に続くのが「特に大学進学なんて推薦じゃないとムリだからな。カリキュラムが違いすぎる。この学校から一般入試で大学進学しようなんて『夢追い人』でバカのやること」だった。しかし生徒が夢を追って努力することはムリと思っても応援するのが正しい教員の姿であると思うし、おれ自身の進路を言うならば一般入試で大学に進学している。
 
話は前後してしまうが、自分のいた商業高校からの大学進学についてもう少し詳しく説明をする。300人程の人数の学年の中でも一桁名の成績優秀者のみに開かれた門が大学進学だった。そして先述の通り、用意されているのはお世辞にも名門大学とは言い難い大学だけ。大学の程度と言えば、一般入試で入ってくるのが底辺校の上位か進学校の落ちこぼれだ。母校の商業高校からの入学生と言えば、進学校に入学できたポテンシャルが努力の果に入ってくるのだからワケが違う。ましてや、商業科目の単科大学である。これがどのようなことになってしまうと言うと、大学の程度に対してオーバースペックな学生になってしまうのだ。大学に進学した先輩方の多くが言っていたのが「大学で学ぶことなんて高校でぜんぶ終わらせていた」であった。大学の知名度や入試難易度と大学の価値はまた別であると言うことは明確にしておきたいのだが、しかしながら母校から指定された大学への進学については全くの無価値なものにしか考えられなかった。
 
Y教諭は母校に凱旋しての赴任であり、オーバースペックな大学生活をモノの見事に経たものだった。「おれはこの高校で優秀な成績だったから○☓大学を卒業して今は教師になった」と自慢をしていたが、教員が出身大学を自慢するのはバカげた話であるし、そもそも出身大学が自慢できる程の知名度のない大学なのである。おれの友人がニッコマのどこかを推薦ではなく一般受験しようとした際になど、「その大学ってバカしかいない大学だぞ」と面と向かって言っていたが、「バカしかいない」ニッコマのどこかでさえY教諭の出身大学より偏差値は10以上、下手したら20近く上である。余談だがこの友人はニッコマのどこかには見事に落ちている(笑)。
 
Y教諭は何かにつけては自分が知的であるかをアピールしたがっていた。顕著なのが学内で生徒向けに文章を書くとき、やたらと学術用語を散りばめた文章で、「難しい」文章ではあるが系統としては根本敬の著作に出てくる人物が書くような文章、当時の90年代的タームを使うなら電波系と言って良い文章だった(笑)。しかしこれが残念なことに、当該の文章が今手元にない。数年前に帰省した折、卒業文集だったかをいつかどこかで公開したく思い持ち帰ったのだが、どこかに紛失してしまっている。思い出しながらなのだが
『君たちが共同幻想論としての出会いは国家ではなく『検定』というパラノ文脈への出会いである。しかし深淵を覗くものはまた深淵も覗いているのである。例えば簿記検定をスキゾと思うのは間違いである』
とか、凡そこんな感じで80年代に流行した現代思想用語を散りばめたものであった。なお、おれが思い出して書いた内容はまったくいい加減な内容で意味のないものであるが、Y教諭の衒学趣味よりは無害なものだと思う(笑)。
 
教員が有害性を発揮するのは、生徒の将来という生殺与奪を持たせてしまうことにある。殊にY教諭は大学受験については全くの無知であった。おれはY教諭と殆ど会話をしたことがない中で唯一覚えているのが、大学合格の挨拶に職員室に言った際のことだ。高校の方針である推薦入試ではなく、一般入試で合格したのが気に食わなかった表情で「お前、公務員試験の勉強はしていたか?」と言われ、「いえ、やってないですよ」と答えたら「お前、それでよく大学に合格できたな」と半ば呆れたように言われたのだった。当時はこの意味がわからず、よくよく考えてみたらY教諭にとっては「普通科の授業=公務員試験=大学入試試験」という程度の認識しかなかったのだ(笑)。
 
Y教諭が担任を受け持ったクラスは悲惨だった。何故かやたらと新聞奨学生を勧めてきていて、その口車に乗せられた友人がいる。ちなみにこの友人とは中学から一緒で、おれよりも優秀で商業科の中でも成績上位者の情報処理コースに入学していた。
彼は高校卒業後に学費を稼ぐために1年間正社員として働いた後、新聞奨学生として上京し専門学校に入学していた。しかし待っていたのは朝も暗いうちの配達を毎日という重労働だ。授業にもろくに通えなくなり、退学をしようにも新聞奨学生というのは学費の肩代わりをしているのでその場合は返金しなければならない。この友人と東京で再会したとき、「東京って思ったほど面白くない」とこぼしていた。おれは「学費の安い夜間部でもいいから大学に入ったほうが良い。お前はおれより頭が良いと思うし1年勉強すれば専門性の高い大学に入れると思う。バイトでも昼に働いて学校に行った方が良いよ」と言っていたのだが、Y教諭の方針に従った彼の上京生活は2年間の「奴隷労働」で終わっている。
 
また、Y教諭は「金がなくて進学できないからって親のせいにするな。社会のせいにするな。税務大学校からの編入というやり方もある。税務大学校は学費もないどころか給料も出る」と当時はまだ概念として存在しなかった自己責任論まがいの理屈を言っていたのだが、少なくとも税務大学校の難易度はY教諭の母校大学よりも遥かに高い。つまり、税務大学校はこの高校の大学入試のシステムでは到底入学の敵わないようなところなのに、無茶苦茶な進路を語っていた。なお、大学校は正確には学生ではなく公務員であるため他大学への編入などできないし、仮にできたとしても大学であれば無論学費は発生する。

Y教諭からは反面教師としては多くのことを学んだ。
 
うち一つとして言えることは、大学に入る意義についてだ。結論を言うならば、おれ自身が大学で得ることのできた最大の経験は「自分よりも頭の良い人に出会える」ことにある。現在であればSNSなどで有識者にコンタクトをとることはできるが、当時はネットも発達していなかった。いや、現在はネットがあるとはいえども、あのようなテクストのみによるコンタクトでは限界もある。知見の深い人間に出会えることは人生でも最も勉強になることだと思っているし、そうした好機の場所として、おれにとって大学は多くを学ぶことができた。ちなみに大学は授業にはあまり期待はしていなかったので(笑)、こちらから学べたものは少ない(笑)。無論、学歴と知性は必ず一致するものではないという事は重々承知している。おれは何故か大学生活の最後の方では到底入学できなかった私大の雄(笑)の早稲田大学の人たちと交流が多かったのだが、ここにさえも知性の欠片も感じられない人はいた。これは持論なのだが、知性の尺度の一つとして、薫陶を受けるべきものへの受信感度が大切であると考えている。強い美学や感受性を持つことによって、学歴以上の知性を感じる人に出会ったこともあるし、こうした人たちには多くを学ばせてもらっている。
Y教諭が無能な根本的な箇所は感受性の欠如であり、薫陶を受けるべきものに気がつくだけの知性も欠如していることにあった。
 
そしてまた言っておきたいのは、Y教諭という突出した一つのサンプルを一般化させているのではないということだ。程度の違いはあれ、類似した無能な教員が幅を利かせていた。出身県の教員の傾向として感じられたのは、小中学校の教員は横暴であり高校の教員は無能であるということだった。その証左として、故郷の県は中学の学力試験では全国首位でありながら、大学進学率については最下位に近いところにある。
なお、地域最大の進学校に入学した友人から聞いた話によると、校長が入学式の挨拶で「君たちの将来は雇われる側ではなく、経営者として人を雇う立場になる」と言っていたらしい。なんとも傲慢な人間を形成させるような教育方針を最初から叩き込もうとしているが、この進学校でさえ現役で東京大学に進学できる生徒は皆無である。せいぜいその他旧帝に現役合格できるのが数名くらいのもので、悪意あるネット掲示板だと「自称進学校」と言われる程度、そしてまた校長の発言も教育者としてもその程度なのだ。
 
我が母校の商業高校は数年前に統廃合され、普通科と商業科の併設された高校になっている。Y教諭はまだ定年になるような年齢でもないので、今も現役教員だと思われる。この後継の高校に在籍しているかわからないが、専門科目の教員は同じ学校に20年以上赴任することもザラにあるので、まだ在籍している可能性も充分にある。